2019/4/9
「他山の石」という言葉がありますが、これは中国の古典をもとにしているため、中国でも同じように「他山之石」という四字成語や、「他山之石、可以攻玉」という八字成語があります。しかしこの言葉の意味は、実は日本と中国とでは少し異なっているのです。
日本での意味は、例えば広辞苑でこの言葉を調べると、次にように解説されています。
他山の石以って玉を攻(おさ)むべし
[詩経(小雅、鶴鳴)] (よその山から出た粗悪な石でも、自分の宝石を磨く役には立つという意から) 自分より劣っている人の言行も自分の知徳を磨く助けとすることができる。
このように、他山の石とは、「粗悪な石」であり、「劣っている」人の例えであるとされています。
ところが中国では、同じように「自分を磨くために他者から学ぶ」という意味はありますが、しかしこの「他者」には、「粗悪である」とか「劣っている」というような意味は持たせていません。むしろ逆に中国では、他者の「良いところ」から学ぶ、という意味で使われるのが普通です。
例えば、中国の百度百科でこの言葉は次のように解説されています。
他山之石,可以攻玉的意思:别的山上面的石头坚硬,可以琢磨玉器。既比喻别国的贤才可为本国效力,也比喻能帮助自己改正缺点的人或意见。「他山の石」とは「他国の才能のある人材」の例えとされています。
【日本語訳】
他山之石,可以攻玉の意味:他の山の石は硬く、宝石を磨くことができる。他国の才能のある人材を自国で活躍させることができる例えであり、人の意見が自分の欠点を改善する助けになるという例えである。
また由来となっているこの中国の古典「詩経(小雅、鶴鳴)」の現代中国語訳文は、幾つかのサイト [1] [2] [3] [4] を見ると、いずれも「他山の石」のことを「他方山上有佳石」のように訳していて、これは「他山には良い石がある」という意味です。
ところで日本のネットなどでこの言葉を調べると、「他山の石」というのは劣っているものの例えであるから、先輩や先生など目上の人に対して使うのは誤り、とされている場合がほとんどですが、しかし不思議なのは、その説明として、由来となったこの中国の古典、詩経を根拠にしていることです。例えば文化庁のページ、文化庁月報・連載「言葉のQ&A」でも、その根拠をこの中国の古典にあるとしています。しかし当の中国では「他山の石」は良い石だと言っているのだから、それは根拠にならないのではないでしょうか。
それでは実際に詩経ではどういう意味で使っているのでしょうか?
そこで、この詩経(小雅、鶴鳴)を読んでみましょう。
鹤鸣于九皋,九皋:深く入り組んだ沼日本語訳(私が訳しています)
声闻于野。
鱼潜在渊,
或在于渚。渚:水辺の中の小さな陸地
乐彼之园,
爰有树檀,爰:語気助詞で意味は無い
其下维萚。萚:落ち葉
他山之石,
可以为错。错:玉を磨く砥石
鹤鸣于九皋,
声闻于天。
鱼在于渚,
或潜在渊。
乐彼之园,
爰有树檀,
其下维榖。
他山之石,
可以攻玉。攻:製造、加工する
沼地に隠れて鶴が鳴き、
その声は野に響く。
魚は深いよどみに潜っていて、
時折岸辺に浮かんでくる。
この庭園はなんて気持ちが良いのだろう、
白檀の木が生い茂り、
その下には落ち葉が積もっている。
他の山から来た石は、
宝石を磨く砥石にもなる。
沼地に隠れて鶴が鳴き、
その声は空に響く。
魚は岸辺に浮かんでいて、
そしてまた深いよどみに潜っていく。
この庭園はなんて気持ちが良いのだろう、
白檀の木が生い茂り、
その下には実がなっている。
他の山から来た石で、
宝石を作ることもできる。
詩の内容は、庭園の自然な美しさを称えるものです。詩全体から伝わるのは、美しいもの、優れたものは、隠れて見えなくても、価値がわかるものだ、というメッセージです。詩の中に出てくる、鶴、魚、檀、石、この4つが、隠れている優れたものを象徴しています。この4つのうち、鶴、魚、檀、の3つはその言葉からして優れたものを表していることがわかりますし、いずれも「隠れている」という描写がされています。しかし石については「隠れている」ではなく「他山の」という表現がされています。これはどういうことでしょうか。何故元からここに有った石ではなく、他の山から来た石なのでしょうか。それは即ち、他の山から来た石は馴染みがないので、最初見たときは何の価値があるのか分からなかったけれど、実は硬くて宝石を磨くことができる優れた石だった、というふうに解釈できます。石についてはこうして「隠れた価値」を表現していると考えるならば、詩全体のメッセージに結び付きます。
おそらく日本での解釈は、最後のフレーズに出てくる石と玉の二つの文字に着目し、玉=優れたもの、石=劣ったもの、という相対する優劣を表現したものと解釈し、そこに意味を見出そうとしたのかもしれません。実際に中国の成語には「玉」と「石」の両方の文字を使った成語が幾つか有り、例えば「玉石混淆」などは日本でも使われますが、それらのほとんどで玉と石を優れたものと劣ったものの対比として意味を持たせているので、そこから類推したのではないでしょうか。